夏の雪
勤め先に辞表を出した吉岡耕三は、新天地の笹岡市に向けて車を走らせていた。
失態や憎悪という理由ではない。
自らの生き方の問題だった。
我侭、利己主義、そう捉えられても仕方ないと思ったが、意思は曲げなかった。
指導者として、考えが一致しなければ、そこにいる理由はない。
もともと、現役復帰の話がなかったわけではない。
試合中の怪我による現役引退は、選手なら宿命的なものであるが、
耕三の怪我は10t車の後部にめり込んだ交通事故だった。
両脚骨折、胸部圧迫、救出に時間を要したが、強靭な肉体が絶命を回避した。
178cm、93kg、HOとしてのプライドでもあった。
治療と地獄のリハビリを懸命にこなし、奇跡的な回復をなしたのである。
東名高速を下りて国道に移る。
目的地まではまだ2時間半もある。
サービスエリアの休息をしなかった耕三は、この先、近道をして走ろうと考えた。
迎えてくれる新しい仲間のもとに、一刻も早く行きたかった。
市街地を抜けると民家は少なく、正面には山がそびえていた。
偶然、山肌から朱色の月がゆっくり昇ってくる。
先輩からの言葉を、ふと、思い出した。
今年、8月はじめの満月はファーストムーン、月末の満月はブルームーン、だと。
言葉の意味を特に聞くこともなく、ただ、そういうものだと聞き流したが、
今更ではあるが、その意味を知りたいと思いながら走った。
民家はなくなり、鬱蒼とした竹林を分けて道は二股になった。
目的地が月の方向だったこともあり、右折してアクセルを踏んだ。
ラジオを入れるが雑音がひどい。
かすかに聞こえているのだが、あまりに断片的で、
8月は二度の満月が・・・ます・・・ブルー
2日、昇る満月を見た・・・・・になる・・・・
肝心なところが雑音で消えてしまう。
ため息をつくと、不機嫌そうにラジオを消した。
少し疲れた様子で窓に肩肘を付き、左手でハンドルを握る。
ポケットの携帯が鳴り、耕三は車を走らせながら耳に当てた。
歓迎会の時間と場所の知らせだった。
7時には着くと言おうとしたが、雑音とともに交信できなくなった。
アクセルを踏む。
長いトンネルをしばらく進んだところで、ヘッドライトが消えた。
ハザードを点滅させ、懐中電灯でボンネットを開けるが、耕三は打つ手がない。
国道に入ってから対向車も来ず、後続の車も全くなかった。
引き返そうか、進もうか、考えた。
後方は真っ暗闇、前方をめざし、歩いた。
懐中電灯もほどなく切れた。
トンネルの壁伝いに進むと、白い明かりが見えてきた。
耕三はほっと安堵の笑みを浮かべた。
街の明かりが広がる 。
携帯を取り出し、迎えを頼もうとしたが通じない。
歩くとグランドらしいフェンスが見えてきた。
小走りに近づく。
ラグビーの練習をしている。
耕三は驚愕した。
石岡! どうしてここにいる?
高尾! お前も、なぜだ。
耕三は口に手を当て、張り上げる声で名前を呼ぶが、二人は振り向きもしない。
真人、おれだ、耕三だ!
おい、どうしたんだ、聞こえないのか!・・・・
ぅッツ!
スクラムを組んだHOの石岡が膝を着き、股間を押さえている。
ぉあっツ・・・
PRの高尾が股間を抑えながら転げまわる。
同時に耕三は、自分の金玉に激しい痛みを感じ、もんどりうった。
何が起きているんだ!
激しく突き上げる痛みの中で、耕三は混乱した。
フェンスに手を掛けながらもがいている時、車が後ろを通過した。
待っていれば後続の車が来る。そう思い返して、一目散にトンネルに入った。
走った。
走り続けた。
巨漢をゆるがせ走り続けた。持久走には自信があった。
嘘だろ!
孟宗竹・・・どうして・・・
竹林なら、トンネルの手前だろ。俺の車はどうしたのだ・・・・。
全身に寒気が走り、口がカラカラに乾いた。
戻ろう。
どこに。
車に。
いや、ないのだ。
そうじゃない、そんな筈はない!
トンネルに入り、目を凝らして進んだ。
進むが、車はない。
そして、トンネルを抜けてしまう。
目の前の街は景色が異なった。
グランドはなく、道場がある。
孝三は青ざめながら道場の中に入った。
後輩の大隣浩志が乱取りをしている。
師範の相手となり、内股を激しく払われている。
払った足は幾度となく股間に嵌り、みるみる顔面は高潮し、動きは鈍くなった。
浩志の股間に足が食い込むたびに耕三は壁に爪を立て、腰をかがめて滲む汗を滴らせた。
師範は大隣の相手に黒田を指名した。
動きが鈍い大隣は襟を取られ、大外狩りで崩され、寝技を組まれた。
黒田という男、130kgの巨漢。
浮き固めで首の自由が利かないうえに、股間を責められている。
耕三は、とてつもない金玉の痛みに襲われている。
ぐりぐりと、捻り潰されるように、熊のような指が玉の中に食い込む。
ジト~っと吹き出る脂汗、えずき、咳き込み、奥歯はガチガチ震えはじめた。
床に染み入る汗。
その横を、えずきながら両脇を抱えられた浩志が通り過ぎる。
耕三が、そこにいることさえ、いや、見えないのだ。
壁を蹴り、ガラスを叩き割り、轟音のように張り上げた声で唸りあげた。
汗にまみれ、肌にまとわり付く煩わしい服を、全て脱ぎ捨てた。
床に伏して拳を叩きつける耕三の上を、黒田が踏み潰してゆく。
路上をさまよう。
見上げると、蒼白の月。
朱の月ではなかったのか・・・
裸足の、ヒタヒタと、冷たく響く音。
もはや、冷気漂うトンネルを歩いているのではない、歩かされている。
暗闇の中で、おぼろな脳裏に人の気配を感じた。
頭上に八枚の掌がかざされ、脇と膝裏に指が入ると、緩やかに浮き上がった。
浮遊する身体は、トンネルを抜け青竹に括り付けられた。
蒼白の月灯りに照らされた耕三の肉体。
太い首、盛り上がる大胸筋、荒い呼吸に上下する腹筋。
発達した上腕筋、節くれた指。
潰され、打たれ、揉まれて腫れた金玉、逞しい竿。
肩幅に開いても、股間の先の視界を遮る丸太の太腿。
俄かに月は雲に隠れ、一陣の風が竹林を疾走する。
天変地異か。
笹の葉がザワザワと唸り、しなる竹の、まだ若い葉の先が鍛え抜かれた肌を嬲る。
激しく巻き上げる風に煽られ、耕三の四肢は千切られるように引かれた。
鞭打つ太い青竹が肉の塊を打ちのめす。ヒクつく大胸筋。
大脳の皺のような、背筋を叩きつける竹の節。
螺旋のうねりが交錯し、雄玉をひしゃげて股座を深くえぐった。
喉を鳴らし、のけぞり、目を剥いて絶叫するが、
鬱蒼とした竹林の波濤の中で、それは、誰の耳にも届かない。
やがて、
鈍色の雲の隙間が広がり、ざわついた竹林は静寂へと変容した。
嬲られた男のうなだれる首、えぐられ、打たれ赤黒い雄玉、横たわる根。
再び、気配の掌が、テラテラと月明かりを浴びた笠にあてがわれる。
生気のない根が根元の黒々とした密林からそびえ立ち、雄々しく反り返り、甦る。
命の激流となる血の潮をまとい、肉棒の先端に息づく透明な一滴。
それは糸を引くほど溢れ出し、かざされた手の動きに、ぞぞと、体幹を甚振られる。
ざわつく若竹の葉に揉まれ、今まさに憤怒の潮が放たれた。
いつ果てるともなく吹き出される白濁の滴は、蒼月の光を浴びて結晶となり、
吹雪のように山肌を駆け抜けて、一面を真っ白に覆った。
朱月は、山肌を縫う月に宿る呪文。
蒼月は、呪文の果て。
凍える車の中で、耕三はうっすらと目を開けた。
しんしんと降る、
夏の雪。
TOPへもどる