雨の訪問者


(1)一人

高校の3年間、殿山元太はたった一人のラグビー部員だった。 
産業が衰退し少子高齢化が進む過疎地では、
学校の存続さえ難しいという問題に直面する。
40人学級の間口で、新入学が30人にも満たないことは珍しくないことで、
団体競技の部活をするには部員が足りないのだ。
それは元太のラグビー部だけではなかった。
甲子園を経験した野球部も今は部員一人。
晴れやかに入場行進をするチームの写真は、栄光をかすかに留めるほど色褪せていた。

オホーツク海に面する網走・北見は有数のラグビー合宿地である。
国内一流のチームが冷涼な夏に、広大な練習場で鍛錬を積む。
元太のまちはそこから1時間以上も内陸にある。
ラグビー好きの父親に連れられて、子供のころから練習を見ていた。
不慮の事故は中学の時の見学帰りだった。
道路を横断する動物を避けようとして道路下に転落。
元太は軽傷で済んだが、父を亡くした。
運ばれた病院で、忌の際にかすかに聞いた父の言葉を実現するために孤軍奮闘した。

元太は、野球部の木村敏郎と一緒に体育館と廊下を走った。
敏郎はボロボロになった羽根球のシャトルコックでトスバッティングをし、
181cm97kgの元太は、踏み固めた雪原を走ってタックルを繰り返す。
3年間黙々と練習する部員一人のラグビー部と野球部の風景だった。
元太が試合をするときは、1時間以上車で移動して大きな学校のチームと合流し、
野球部の木村敏郎は周辺の3校が合同でチームを作り、大会に出場した。

フッカー元太の存在は北海道選抜にもなるほど知られ、大学からも誘いを受けていた。
だが、勉強が嫌いな元太には進学の意志はなく、
父を失ってからというもの、余裕のある暮らしには遠いものだった。

おら、こぼさんで、ゆっくり食えってぇ・・・

元太をよく知る食堂の親父立石浩二は、練習の帰りに呼び止めて特盛の飯を用意し、
勉強が嫌でもラグビーは続けろと、言い続けた。
子供に恵まれなかった立石は父親と同期である。
飯を食っている時は、何を言っても元太の耳に入らない。
ガツガツ食う元太を、わが子のように厨房から見つめた。


(2)先輩

立石は工業高校卒業後土木会社に入社したが、実家の継承で畑違いの調理師になった。
野菜を黒土から掘り起こす風景を窓から眺めながら、受話器をとった。

西野、俺だ。
おう、久しぶりだな。
頼みがあってよ。
どした。
俺の古くからの友人で殿山ってのがいてよ。6年前に事故で亡くなったんだが・・・
ああ、ラグビー好きって聞いてたな。
おう。その息子なんだけどよ・・・
知ってる、元太だろ。
面倒見てくれんか。来年、高校卒業なんでよ。

西野正人は立石と同期入社の専務で、クラブチームの監督をしている。
東日本大会の1回戦を突破できないチームにとって、それは毎年の目標であり、
新人、元太の入社は職域混成のクラブチームにとって願ってもないことだった。

朝5時に起床して7時まで練習。
仕事を終えると8時から10時までの練習が日課になっていた。
会社の先輩である吉野哲弘はプロップで、体格は元太とほぼ同じ。
寡黙だが、仕事もクラブチームでも信頼にあたう28歳である。
入社から5年が過ぎた元太と社宅が隣の吉野とは兄弟のようだった。

先輩、昨日から練習中にしゃがみこみますね。どうしたんですか。
あはは、見られてたか。歳かねぇ、腰にきやがる。
何言ってんすか。

風呂場で隣同士からだを洗いながら、元太は吉野の浮かぬ顔を気にした。

先ぱ〜い、ロックの木内ですけど、あいつ、
スクラムんときはいつも俺の金玉握ってきやがるんすよぉ。
ははは、お前、あいつとはイマイチ気が合ってないもな。
おとといの練習んときには、あんまり捻るんで睨みつけてやったんすよ。
で?
で、って・・・
ほっとけや、そんなもん。握りたけりゃ握らせろ。
先輩も握られてんすか、金玉。
今に始まったことじゃないだろが、馬鹿たれ。
したけど、木内の奴・・・
じゃぁ、俺が握ってやるよ。ホレ!
あぎゃぎゃぎゃあああああァァ!!
おっ、元太・・・・お前勃ってきてんじゃん。な〜に考えてんだか。
勘弁してくださいよぉ、いきなり、そん手で。潰れるかと・・・・おりゃ!!
どわァァァああああああっはっはっはあ〜〜〜!!

俄かに、吉野も半勃ちになった。元太は紅潮した。

翌日。

吉野、ちょっと来い。

西野監督に呼ばれている。
ディフェンスとアタック能力が高いプロップ吉野の存在は絶対だったから、
腰に手をやりながら、時折顔をしかめる姿は日に日にチームの不安を誘った。

えっ! 入院? どうしたんすか。
検査だってよ。
なんだ、検査でしたか。で、何の?
MRなんとかってやつ。胃の検査だってよ。
胃カメラじゃないんですか。
やった、それ。死ぬかと思った。もう絶対やらん、胃カメラ。
MRってなんすか? どんな検査っすか、それ。
知らんよ、そんなもん。終わったら直ぐ帰ってくるから、早く行け、練習。

それが、元太と吉野の最後の会話になった。
検査後、手術も不能な末期の胃がんと宣告され、
入院から僅か1ヶ月たらずで、吉野は急逝した。


(3)上司

今日も元太は来んのか。
知らねっす。

元太は、この作業グループ3人の責任者だった。
普段の仕事ぶりからは考えられない数日の欠勤が続き、野田剛介が代わりを務めている。
この男、久々の新人入社だったこともあり、
新入りは私物と言わんばかりに、何かにつけてこきつかった上司で、
業務用の道具や作業着ならまだしも、下着まで買いに行かされたのだ。

現場仕事の追い上げ優先で、4月の入社から数か月経過した夏の夜、
歓迎会と称する宴会では、最も不得手な歌を強引に歌わされ、
外れたままの音程を嘲笑されたあげく、度が過ぎる悪ふざけでパンツを下ろされた。

おぉ、ガタイもデカイが、玉も竿も並はずれた小僧だな。
おい、これで小僧はないだろが。

周りの男たちが笑う。
酔った勢いと言いながら、元太は玩具みたいに金玉を引っ張られ、弄ばれた。
野田が太鼓腹のベルトを外して、剥き出しにした下半身を元太の目の前に晒し、
酔って赤黒い顔を緩めながら、一物を自慢げに見せびらかすと、
あざけった大人たちを蹴り倒したくなるほどの憤怒が湧き上がった。
元太は咄嗟に野田の金玉めがけて拳をぶち込んだ。
一瞬の静寂、凝固、予感。くの字の野田は元太に覆いかぶさるように崩れ落ちた。
ひっくり返る酒、床に飛び散る皿。
嘲笑した野郎たちが野田を抱き起し、紅潮して汗ばんだ元太は吉野が抱き寄せた。

先輩、止めましょうよ、度が過ぎて酷すぎっすよ。
どっちが、だ・・・

くぐもった声で、野田は吉野と元太を睨みつける。
その場を取り繕い、手のひらを返したように、作業員たちは元太をなだめた。
5年前の、夏のことだった。


吉野が急逝して、元太はラグビーの練習も、仕事も、さぼり始めた。
起きられない朝。
生気のない顔。
無気力なまま、一日をやり過ごすことが多くなる。
故郷に帰ろう。
ふらっと電車に乗った。

(4)教室

久しぶりの田舎は、あの時と変わらずに静かだ。
通りには人影はなく、時折通過する車両の音が確かに人の住んでいる気配だった。
あったはずの建物がなくなり、シャッターが下りた店も少なくない。
あの時よりも町が小さくなったと思った。

夕暮れに、高校の門に立った。
グランドには雑草が生い茂り、誰もいない校舎はひっそりと佇んでいた。
長い影を引きずりながら教室の窓の下を歩いてみる。
玉砂利を踏む音だけが聞こえる校舎の裏に回ると、戸板が外れかかっている。
錆びた鍵が外れ、押し込むと戸は開いた。
教室の窓を抜けて、廊下に細い西陽が射し込んでいた。
懐かしい教室の匂いを嗅ぎながら、ガランとした床に腰を下ろした。
締め切られた部屋には熱がこもり、蒸し暑い。
止まったままの時計、消し跡が残ったままの黒板。
少しずつ陽が傾き、廊下に刺しこむ西陽も消えたころ、
優しさに包まれるように、元太は眠った。


社宅の一室。じっとしているだけで、滲んでくる汗。
宵の口の雨が、夜半には節操のない降りになっていた。
カーテンの隙間から縦長の蒼白い閃光が漏れる。
地鳴りを伴い、机上に置いたコップがカタカタとなった。

前夜から徹夜した。
ただでさえ疲れているのに、この寝苦しさは堪える。
窓に打ち付ける雨音、風が巻く音、ジメジメと寝苦しい夜。
首筋と胸板の汗を掌で拭き取りながら、元太はやむなく目を覚ました。

のっしりと起き上がり、朦朧としながら冷蔵庫のドアを開けた。
眩しさに顔をしかめ、発泡酒を手荒に取り出して水のように喉に流し込む。
冷蔵庫のドアを開け放し、目を閉じたまま2缶目のプルを弾かせた。
背後から見るとシルエットの元太は、冷蔵庫を隠すほどの巨漢である。
飲み干した空き缶をゴミ箱に投げた。
軽い金属音を立てて床に転がる。
ゴミ箱に入ろうが、入るまいが、そんなことはどうでもよかった。
頭を掻きむしる。
寝苦しい夜と、止まない雷雨だけでなく、ひきずるムシャクシャに不機嫌でいた。


今のは・・・・・
元太は振り返った。
雨が窓を叩いた音、なのか。
いや、そうではない。
誰かが外から叩いている音だ。
こんな時間に、いったい誰だ。
もっそりと体を起こし、汗で尻の周りにへばりつくパンツを引きはがしながら、
のしのしと音の方へ進む。
冷蔵庫の前には、まるい汗染みが残った。
カーテンを開けると、千切れた木の葉がおびただしく付着している。
空耳か。
寝ぼけているのか。
こんな時間に叩く奴などいるはずもない。
ふてった顔を、さらにひしゃげながら寝床へ戻る。
汗臭い部屋の、湿っぽい寝床にタオルケットを敷き、ドッと音を立てて大の字になった。

雷鳴が遠くなり、雨音もおさまりかけ、うとうとし始めた時に携帯が鳴った。

元太・・・・

直ぐに電話は切れた。
再びうつらうつらと眠りに入ろうとした時、二度目の携帯が鳴った。
目を閉じたまま、耳に当てる。

元太・・・・
あっ吉野さん? いま、どこにいるんですか。
腹の痛みは、直ったすか。
今度の試合には、出れるんすよね、吉野さん!



ゆっくりと目を覚ます。
遠くに聞こえていた雨音が、すぐそばで聞こえる。
夕方の天気は、土砂降りの雨になっていた。
校舎の隅々にまで響き渡る雨音。
元太の身体は、じっとりと汗で濡れている。
夢と現実の境がわからない意識の中で、元太はヨロヨロと教室を出た。

えっ・・・・吉野先輩?
元太、お前がそんなだらしなくて、どうすんだ。
お前がチームを引っ張らなくて、どうすんだ。
あっ!親父さんも。
あはは、腹空かして、死んだような目をして、なしたんよ。
いま俺はな、お前の父さんと一緒にいる。
父さん言ってるぞ、ラグビーしっかりやれよ、ってな。


暗い廊下の向こうに消えていく二人が、潤む涙ですぐに見えなくなった。

俺は、逃げない!
二度と逃げないから!



(5)伝言

翌年。

東日本大会初戦の終盤、76分。
敵陣でラックを形成しながら主将殿山元太が猛然と押し込み、
スクラムハーフがねじ込んで、起死回生のトライを決める。
鋭角的なコンバージョンは決められなかったが、それでも2点の勝ち越し。
残り時間は僅か。
相手には今まで勝ったことがない。
逆転トライの喜びも束の間、
キックオフから怒涛のパスで、瞬く間に自陣に攻め込まれる。
元太は、死ぬ気のタックルで突っ込んでくる相手を倒す。
モールからボールが回され、ピンチが続くゴール前5mの攻防。
ジリジリと、確実に攻め入ってくる。
再逆転で敗戦なのか。
今年もまた、破れないのか初戦の壁。
元太は、渾身の力を振り絞って押し返す。

モールからロックの木下がターンオーバー。
あの金玉捻りの木下から元太へ、そしてスタンドオフへパスが回り、
タッチラインを切った。

ノーサイド。

まるで優勝したように泥だらけの男たちが、抱き合った。
越えられなかった初戦の壁を、ついに乗り越えた。
試合開始前の小雨が、本降りになってフィフティーンを濡らしている。

ベンチに戻った元太は、小さなメモを手にした。


よくやった

吉野哲弘

(完)

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