朝露


深緑の里山に一筋の煙が立ち上っている。
清涼な空気があたりの景色を包み、
今そこに、
一切の音を拒んで、朝を迎えた。

伝一は、炭焼きをしている。
組織の一員として関わるのが嫌いな職人気質で、
ひとり黙々と炭焼きに明け暮れていた。
上質の木炭を高値で売るのではなく、
買い求めに来る職人の、一徹ぶりに合意した者だけが手に入れらる。

木の切り出しをしていた傍らを、女が農作業の籠を背負って歩いてゆく。
呼び止めることはしない。
突然立ちふさがり、腕を掴んで強引に小屋に連れ込む。
俺の嫁になれ。
無骨に言い放った。
女は、あまりのことに我を忘れたが、しばらく経って、頷いた。
うん。
消え入りそうな声だったが、素直に受け入れる返事だった。

街灯りが邪魔をしない夜空に密集する星々。
蒼い月明かりの夜には、木を渡る生き物のざわめく音がする。
錦の競演と実りの讃歌を享受し、渓流の川魚に舌鼓を打つ。
外に出ることを拒絶する、真冬の天変地異。
氷の滴が谷を駆け、雪解けの地表に黒土の息吹が蘇る、春。
つましい暮らしの中で、自然の恵みをいただきながら、
授かった子どもと平凡な日を送った。
それが、幸せの原点だと、思った。

したたかな雨は三日三晩、続いた。
伝一の太い脚にまとわりつく幼子の頭をなで、妻に見送られて家を出る。
夕方、炭焼きの小屋から、伝一は、その音を聞いた。
受け入れられない景色。
轟きが、山林に木霊するように、伝一は慟哭した。

10年が過ぎた。
その気配もない斜面に、木は勢いよく天へと延びている。
黙々と働く姿は、変わらなかった。
口数少ない伝一は、一層寡黙になっていた。


炭を、くれ。
立ちすくむ男がいた。

己がそこにいるのかと、疑った。
50そこそこの、猛者もさの髪に顎髭。
太い首と分厚い胸。
ベルトが幾分、腹下に巻かれた下半身逞しい男だが、
手、指は伝一のとは異なった。
伝一は、
目を合わせたが、炭にする木を竈の中で組んでいた。
炭を、くれ。
伝一は、竈を閉めると、男を置き去りにして小屋を出た。

水・火・灯り・竈。
ひとり暮らすには、削ぎ落としすぎの建物だが、
沢の水を引き、薪を炊き、
石組みの、屋根のない風呂は伝一のこだわりだった。

熊、か。
突然、素っ裸の男が湯船の前に立った。

食ってくれ。

差し出された川魚に、山菜と木の実。
伝一は、この男が料理人だと気づいたのは、手だ。

一口、魚を食う。
眼つきが変わった。
濡れた指の滴を振るい落とし、添え物の山菜を口に含む。
男は、伝一の目を見、強引に湯に浸かりこんでくる。
ズワーッと、こぼれ落ちる湯の音を聞き、
やがて、仁王立ちの男は、自信ありげな顔をした。

炭を、くれ。

毛に覆われた胸の、臍から下の剛毛の、赤黒く剥け出た亀頭の、
その下にぶら下がる二つのアケビの、
およそ料理人には相応しからぬ裸身の、強引な取引だった。

伝一は、男のアケビを握り、
ぬっと、立ち上がって忠告した。

素直に、ならんとな。

湯船に足を踏み入れただけの男の肌に、みるみる滴が満ち溢れ、
小刻みに震え、拳を握り、黒ひげの隙間から光沢のある並びの良い歯が、鳴り、
やがて、喉が潰れるような低い轟音が響いた。
伝一は、男のアケビに指が食い込んだまま、湯船から放り投げた。


それから、二度目の錦秋を湯船から見ていた。
男は、炭を求めに来ない。
伝一は、糸につるした炭の音色を聴きながら、
不意のほうき星のある、天を眺めていた。
三度目の錦秋も終わるころ、アケビをぶら下げた男が、湯船に立った。

これを、食え。

焼けたキノコと、蒸された朴の葉。

伝一は、
自然とともにあることで、食材の特徴を心得た。
味付る意味を誤ったものは、好まない。
差し出されたモノを口に含む。
男は、あのときの伝一ではないことを見抜いた。

素直に、ならんとな。

俄か。
伝一の、同じ答えに、男の心の一片が剥がれ落ちた。
丸太のような脚の間を分け入り、湯船に沈み、
もはや、顔が触れるほどの距離にあって、

素直に、なれや!

言いながら、伝一の金玉を掴みかけた。
ん!

片方のアケビが、
果肉を割られるように、
炭の木を素手で束ねる野太い指が、
グサリと食い込み、今まさに潰されんとしている。

邪気の味だ。
己、見抜けぬとでも思っておるのか。

男の形相が一変する。
伝一の首を両手で締め上げる。
のけぞり、胸筋を湯船の上に出し、やがて石を積んだ風呂の縁に擦り上げられた。
男のアケビを離し、喉仏の指を外さんともがく。
よもやの怪力で押し出された伝一の、無防備な陰嚢に、
熊男の、そぐわぬ華奢な手があてがわれる。
不敵な笑みを浮かべて、石の縁に体重をかけて押しつぶしている。
積まれた石の不規則な段差に、ゴリゴリと転がされ、揉まれ、叩きつけられる。

満天の星を包む夜空が失せ、
里山を疾走する風と、雷鳴とともに叩きつける雨。
血走る男の目が見開き、華奢な手には鬼の爪が鈍く光る。

邪気。

絶叫はかき消され、
四股の自由を奪われ、
ついに、失った妻と子の地中に引き込まれてゆく。


錦秋が終焉を迎える朝。

炭焼き小屋の、
済んだ音色が響く伝一の炭に、

三つの、朝露。


TOPへもどる