アルバム



1

小雪が舞う昼下がり。
マグカップにコーヒーをたっぷり注ぎ、窓の外を眺めながら、すする。
バードテーブルには、来るはずの小鳥ではなく、蝦夷リスが陣取っている。
近くの小枝から、小鳥が覗いているのが可笑しかった。

南向きの窓からの日差しが力強い。
今年の冬は寒く、雪も多かったが、新しい季節はもうすぐそこに来ている。
北の人は、春に格別の思いを寄せる。
厳しさからの開放。それに尽きる。


窓側の本棚には買いためた釣りの本と雑誌があり、隅っこには古いアルバムがあった。
小村は、分厚いアルバムを取り出し、開いた。

小学生の頃のガキ大将ぶりは懐かしくて、恥ずかしくて、切ないものだ。
子分を従え、得意満面で“秘密基地”の前で腕組みしている小村がいる。
田舎の、自宅の裏には、一日中遊んでも使いきれない雑種地があった。
水溜まりというには大きい、沼というには小さい、ガマの穂や葦が生える湿地。
春はオタマジャクシ、夏は虫取り、秋は木の実取り、冬は雪合戦と山スキー。
イタドリの水鉄砲、マツヤニの船、ブランコ飛び降り競争、トマト盗み食い。
電子機器を使う遊びではなく、日々、考えて遊びを創り出す時代だった。

ガキの約束事、それは―――、
『強い者は無条件に大将』であり、子分は命令を聞き、大将に従順であることだった。
ヨモギは夏になると根元が木質化する。
身の丈以上のイタドリや笹を組み合わせて、基地は作られた。
何の基地でもよかった。隠れ家は自分たちの城だった。
炎天下に、草いきれが籠る基地の中で“密談”したり、“酒盛り”したり。
そして、お医者さんごっこ。
得意満面に腕組みしてそっくり返る自分に、小村は照れ笑いした。

隣に従えているのが、森下健二。
小村より背が高い坊主頭のハナタレ小僧は力が強く、逆らうと押し倒された。
そのことを知っているガキどもは、小村以上に気を遣った。
馬喰の父親は、現金が入ると家を放って何日も遊び、使い切る。
母親の美津子は飲み屋で働いていた。
ちょいと美形な顔立ちで、それを自慢に男をはべる女だった。
金がなく、家族団らんとは無縁の殺伐とした暮らしの中、健二は万引きが常態化した。
学校では勉強などしない。体育と遠足、運動会だけが楽しみで通った。
中学になって親が離婚。思春期の氾濫も家出もできないまま、16になっていた。
父親が買い置きしたプレイボーイを見ながら、
豊満な女の股座をおかずに、健二はセンズリしていた。
知識や情操など無縁で、喧嘩と腕力と主従関係と食うことだけ、
親の愛情など殆ど知らない、小汚い少年だった。

中学卒業の日、小村と健二は離れ離れになる寂しい思いで握手を交わした。
健二は、富良野の自衛隊へ。
小村は、札幌市内の高校に進学した。

会えそうで会えない3年間。
小村はラグビーに明け暮れ、健二は隊で訓練と厳しい規律に明け暮れた。
ときどきメールのやり取りで状況を伝えあったりもしたが、
結局、会えないまま小村は東京の大学に、健二は旭川駐屯地に赴いた。




4年後。

22歳で妻となる、秘密基地の一員だった良子が結婚した。
懐かしい奴らとの再会は披露宴を喧騒にし、周囲の客からヒンシュクの視線を浴びた。
新朗とキャンドルを持ってテーブルに来た良子を、小村は囃したて、
同期の女たちはドレスを触り、新朗の顔を窺い、しかし、他の誰より良子を祝福した。

2次会に繰り出した。
カラオケボックスでもやかましく、知性も理性もない。若さの爆発だった。
「小村、さっきから携帯ばっか見て、何かあんのか」
「う、うん、もう来るころなんだが・・・」
「誰が・・・」
「よお、よお、小村、誰か呼んでるみたいだぜ」
「あ、来た!」
「・・・誰? あいつ」
「こっち、こっち、入れよ。」

ドアを開けて入った男を見て、それが誰だかわかるやつはいなかった。
「だれ・・・」
「健二、ここに来いよ。狭いな。悪い、ちょっと開けてくれないか」
「健二・・・けんじ!」
「え゛==ッ 森下?」
「うっそー、やだ、超かっこいい・・・」
「鼻たれの、坊主だった? 健二か・・・」
「森下健二、です。ども。」
「でっけー、タッパは?」
「結構厳しいんで、食わなきゃぶっ倒れるんで。今、179の80かな」
6年の歳月。ここにいる森下健二の変貌には、驚愕という言葉が最もよくあてはまった。
中学の時の、のっぽの小汚い坊主ではなく、骨格も筋肉も顔つきも精悍になった健二。
少しタイトなジーンズと無地のTシャツにジージャン。
飾らないシンプルさが、かえって男らしさを際立たせた。

ひとしきり、健二の訓練生活が披露されると、女の態度が変わっていく。
女どもはそういう性なのか。
酒が気を許し、羽目をはずし、
ブラウスの胸のボタンを一つ外して、ほつれた髪をたくしあげながら、
安っぽい遊女の仕草で健二にアプローチする。
ささいな戯言が放たれるたびに、ネちっとした仕草で腕や太腿を叩く女。
グロスでプルプルに光る唇に煙草を咥え、テーブルの皿に煙を吐き出す。
健二を毛嫌いし、まるで見向きもしなかった女の変容だ。
穴があいたセーターや、黄ばんだシャツを着ていた頃には、
教室の席替えで、隣り合うことを嫌っていたこいつらが、掌を返している。
顔も体も精悍になるということ、それだけで女たちは過去を忘れる。
もっとあきれたのは、女に囲まれ機嫌良く戯れる健二に、だった。

終電の時間が迫る頃、互いにメアドを知らせ合い、再会を誓った。

「健二、もう一軒行こう」
「ぉあ? まだ飲むのか。俺、もうかなり酔ってるぜ」
小村と健二は居酒屋に入った。


大将と子分の関係は途切れることなく続いていた。
自衛隊の訓練を聞きながら、基地遊びのことを懐かしんだ。
「俺なんか、下っ端の下っ端だったから、何をするにもパシリみたいなもんで」
「高校に行くってこととは、違いすぎた環境だよな」
「行きたい会社はないし、事務職みたいのは嫌だし。でも、訓練は嫌いじゃなかった」
「あの基地づくりには健二は欠かせなかったしな。」
「ああ、大好きだったな、基地作りは」
「訓練では経験が活きたんじゃないか、ガキの遊びだけどな」
「ははは。山の中で野宿したり、穴掘ったり、雪山でスキーやったり」
「アナ?」
「災害訓練ってやつよ。自衛隊と言っても戦争に行くわけじゃなし」
「不思議だよな。」
「ん?」
「いやぁ、もやしみたいな健二が、こんなに変わっちまってよ」
「朝走り、夕方走って、何をするにも身体が動かんと。食わなきゃぶっ倒れる。」
「上下関係は厳しいんだろ」
「上下っていうか、規律だな。小村・・・お前、男に触られたことあるか?」
「触られる?」
「あそこ」
「・・・・・えッ、ここ?」
「ん・・・」
「ある。」
「ぉえ″ッ! マジかよ」
「ラグビーじゃ、んなもん普通にある」
「俺よォ・・・マジ、びっくりしたぜ」
「やられたんか」
「ん。」
「誰に、どうやって」
「7つ上の陸曹の奴で、野宿ん時に『デカイもん下げてんなぁ』って、がっつり」
「で?」
「で、何がなんだかわからんくて、俺の手を先輩の・・・に持って行かれて」
「ここか?」
「おい!触んなよ・・・・あああ、俺、おかしくなりそ(泣)」
「健二。その先輩が好きか?」
「・・・ぅん。面倒みてくれるし。怒られるけど、優しいし。・・・でも、男だぜ」
「先輩に絞り採られたんだな」
「・・・ぅん。」
「で、嫌いになったか、先輩のこと」
「・・・ぃや・・・わからん」
「・・・・・」
「俺は、親父の週刊誌をめくり、女のあそこ見ながらシコッてた。それが、男からされるなんて、考えても見ないし、わかんねェ」
「よくあるのか、たまにか」
「最近は、ちょっと、多くなったかな」
「面倒みのいい先輩なんだけど、そういうのは嫌だって・・・か」
「俺には、わかんねェ。あんな訓練の意味がわかんねェ」




健二は、自衛隊での金的訓練を語り始めた。
通信訓練で山中に16人で行ったときのことだった。
標高1000mの山頂だが、北海道は林道整備が行き届いていて、そこは山頂付近まで車で行くことができた。
テントと機材を持って設営し、健二ら新人5人への指導と高所からの試験通信が行われた。
健二は、無線機材に興味を持ち、先輩の指導を注意深く聞いた。
駐屯地司令室との交信が完了し、訓練が終了して休養できると思った時だった。
隊長の号令で全員が整列した。
「これから、新人特別訓練を始める。敵の攻撃に耐えることを目的としている。5人の新人には2人の先輩隊員が指導に就く。班分けは既に通知の通り。あとは班長の指示に従え。以上だ。」
山中に散った5つの班は、互いの訓練が見えない距離をとった。
全て、予め準備されたものだった。

健二についた先輩2人はどちらも冬戦教所属の現役スポーツマンだった。
顔は会わせる機会があるものの、会話をしたことはなかった。
一人は顎鬚で厳つい。もう一人は切れ長の目つきが意地悪そうだった。
二人の前に立たされ、顎鬚から質問が飛んだ。
「訓練を始める。先ほど隊長が言ったところだが、敵の攻撃に耐える訓練だ。武器を持たない、陸上でのことをいう。敵の攻撃とは何か、答えろ」
「殴り合い」
「よし。よく答えた。」
「うっす」
「敵は2人、一方の敵に身体をつかまれると一気に不利になる。どうする」
「殴って、蹴散らします」
「繰り返し起きたら、どうする」
「何度も、殴り、蹴散らします」
すると、切れ目がいきなり手をとり、片腕で首を絞めた。
とっさに、屈伸し、背負い投げして見せた。
「よし。お前はできるな」
「うっす」
交互に、繰り返し、二人はかかってきた。
何度も、何度も、同じように。
しかし、それが質問の正解ではないことを、彼らは知っていた。
次第に息が上がる健二。
抵抗する力が徐々に弱くなってきた。
「よし。森下健二。これから訓練を始める。覚悟しろ」
ぜーぜーと肩で息をしながら、驚いたように班長を見上げた。
「立って、股を開け。後ろで手を組め!」
切れ長が、号令のあと健二の直ぐ前に来て、両肩に手を掛けると股間に膝を打ち付けた。
「ふぐぅ・・・」
崩れ落ちそうな健二を、切れ長は両脇に腕を入れて起こし、再び股間に膝を打ち付けた。
「ぐううう・・・」
訓練だ!根を上げるな! 遠くから聞こえる。
三発目が股間に食い込んだとき、健二は崩れ落ち、のたうちまわった。
立ったまま、二人は見届ける。
転げまわる健二を、顔を見合わせ薄笑いを浮かべ、頷いた。
切れ長が健二の片足を持ち上げ、もう片方を顎鬚が抱えた。
大股を晒されている。健二は予想できる攻撃に、両手で股間を覆った。
「どけ!」
野太い声で一喝する。
健二は目を閉じて観念したように頭を地面に着けた。
ドスッ!
「ぐわああああああ」
ドスッ!
ドスッ!
ドスッ!
ドスッ!
胃からペースト状のものを吐き出し、しばらくして、轟音の唸りをあげた。
「敵の攻撃は、こんなものではない! 根をあげるな!」
切れ長は、迷彩服のズボンを下ろし、健二の下半身を剥き出しにした。
「でっかい太ももしてやがる。」
「ほほう。こんなものぶら下げてりゃ、相手の思う壺。最高のターゲットだぜ、森下」
切れ長に羽交い絞めにされ、下半身剥き出しの股の間に顎鬚が胡坐をかく。
「ガキで入隊して、よくここまで筋肉つけられたものだな、森下」
「この腹筋。ハンパないっすね」
「上、まくってみろ」
大胸筋の凄さに、二人は顔を見合わせ、申し合わせた。
「羞恥攻撃も必要だな、森下」
言うが早いか、切れ長は乳首をつまみだした。
不覚にも、そこは健二の弱みだった。
意に反してムクムクと起き上がる竿。
「おい、お前、さっきまでの金玉の痛みはどこ吹く風か。てめぇ、余裕ぶっこいてやがる」
「いや、先輩、こいつ、やっぱ若いっすから効いてないんすよ。」
馬鹿なことを言うな、と頭で思ったが、声にならない。
情けないほど、健二の竿は、猛烈に、硬く、そそりたった。
まだ黒く染まらない初な亀頭は雁が大きく、両手で握れる長さ、親指が少し余る太さ。
それを、切れ長が握ってしごき、顎鬚は、緩みかけた玉袋を両手で拝み揉みを始めた。
金玉が手の中で擦れあい、押し潰され、転がされる。
「あ゛っ、あ゛っ、あ゛っ」
のけぞって、顎鬚の手を掴み、払おうとするが、今度は握り潰し。
「はぐぅぅぅぅぅ」
乳首を摘み上げられ、カウパーが滲む亀頭を揉みしだかれ、金玉をしばかれる。
いつ終わるのだ。
「やばいっす、いきそっす、あ、だめっす、やば・・・」
瞬間が永遠のような、悶絶の中、やがて健二の竿から勢いよくザーメンが飛んだ。
切れ長の耳をかすめる程に飛び、三度、四度と噴射は繰り返された。
横向きで無念の唇を噛む。自分でしごく意外に触られることのない竿。
ましてや、射精など。
これの、どこが訓練なのかと、疑った。
しかし、そんな愚問は二人には通じもしない。
顎鬚の手の中の金玉は腹腔に逃れようとしているが、袋の根元で押さえ込まれ、
射精と同時に、顎鬚の毛むくじゃらの熊ゲンコツが鶏卵にトドメをさした。
グニューゥ。
縦長の金玉の中央を割って入った拳が、玉を変形させた。
切れ長に尻餅をつかせて、のけぞり、白目を剥いて失神した。

山を渡る一陣の風は、健二の口から吐き出す泡を、顔面を舐めるように吹いた。
いつの間に、満月の明かりが、そこにいる三人だけを照らしている。


顎鬚と切れ長はタオルを取り出し、脂汗で濡れた健二の身体をぬぐった。
反抗する気力も、話をする意識も、何も持ち得ない健二は、
顎鬚に腰と下腹部のマッサージを受け、切れ長から少しばかりの水を含まされ、
苦痛と、吐き気と、屈辱に耐えながら、眠れない夜をすごした。



健二は、自衛隊を辞めようと思った出来事だと言った。
小村は話し始めた。
高校で主将のときにチンタラ練習にむかつく同期を怒鳴りつけ、
殴りかかってきた奴を相手に戦闘開始したが、
逆に羽交い絞めにされて金玉地獄に落とされた事や、
大学では、ゴールポストに大股開かされたまま金玉激突喰らい、のこぎりされたこと、
ボール磨きを手加減したら、吐き気がするまで先輩にカチ上げされたことなどを話した。
ラグビーでは金玉責めが日常であること、
しかし、それは戦う上で必要な訓練であることを話した。

健二には、それを理解するまで時間が必要だった。



翌朝。

健二は小村の部屋で寝た。
バスタオルで短髪の頭をクシャクシャしながらシャワーから出てきた。
「あー寝た。」
深く吐いた息を腕にかけながら、雫を拭った。
「パンツくらい履けよな」
「他に誰もいないし、隊では普通だし」
「しっかし、お前のチンポのでかさは半端ないな」
マグカップにコーヒーを注ぎながら言った。
「おう、隊では先輩からも、そう言われる。」
「だよなぁ、握られても仕方ないな。」
「ん、何のこと?」
「オイオイ昨日、みんなと別れた後の居酒屋で・・・覚えてるだろ?」
「行ったまでは、覚えてるけど、・・・俺、何かゲロったか?」
「馬鹿、お前覚えてないのかよ。・・・朝飯、こんなのしかないんで」
「すまんな」
「卵が切れてて・・・、あ!お前のデカイから、キン玉子焼きにしてやるか!」
「あはは、面白れェ。だな、やってくれ」
健二は自分の金玉を握り出し、身体を反るように股間を突き出して小村の元に進んだ。
「ホレ!」
「バカタレ。お前みたいな鶏卵金玉はこうやって料理すんだぜ!」
着き出された金玉に、小村はすかさずゲンコツを振り落とした。
「あ″ぃったぁ!」
ふざけたつもりで振り下ろした拳骨が、細い血管がまとわりつく薄い皮膚の上に落ちた。
グニュっとした感触が小村の第2関節に残る。
テーブルの下で、呻き、うずくまって固まる健二。
「大丈夫かぁ。ごめんなぁ」
うぅぅ、と唸ったまま震える健二。
バスタオルに顔を埋め、足指を握りしめて痛みに耐えている。
傍らで腰を摩り、健二の様子を窺うが、逃げ場のない金玉の直撃弾だったから、
それは、ことのほか痛かったに違いない。
床に片手を付き、おもむろに顔を上げ、真っ赤な目で健二は言った。
「いてぇ・・・」
力ない声だった。
コップに水が・・・・と立ち上がった目の前に、
小村の、馬鹿でかい太股に押し出された、パンツの小高い丘。
健二は、潤む目でターゲットの照準を合わせると、すぐさまナックルを発射させた。

ブムっ!
おゥップ!

肉の塊が健二の真上から崩れ落ちてきた。
健二の拳には、湿り気のある生暖かい肌の感触と、
つき立てから一日置いた餅のような、中途半端に硬い固形物の弾力を感じた。
健二は、自分の下半身よりも一回りでかい男の、大胸筋も肩も腕も太い男が、
今、目の前でのたうつ姿を、自分の金玉の引いていく痛みを覚えながら見ていた。

「てめぇ、子分のくせに、歯向かうか!」
鬼の形相で翻った小村を見て、健二は一瞬ひるんだ。
「俺の玉を殴るなんざ、10年早いぜ、健二」
言うが早いか、小村は健二の両脚を取って開脚し、丸太のような脚を落とした。
「おわあああああああ」
体重をかけてゴシゴシ揺する責めに、両手を床に叩きつけてもがくしかない。
「ギブだぁ!やめろ!痛てぇえええええええ!」
健二に背を向けて、小村も玉を抑えた。


しばらくして、小村は健二にタオルを差し出した。
「入りなおそうぜ、シャワー」
「うっせ!」
「怒んなよ」
「お前のせいで、あの訓練を思い出しちまったじゃねーか」
「ごめん、悪かった。おら、シャワー行くぞ」
ゴン、と短髪の頭にゲンコツを置き、強引に腕を取って浴室に行った。
擦りガラスの向こうに、水しぶきの音、ブツクサと小言を吐く健二の声、
そして、健二の身体を洗う小村の影が映った。

「健二、俺、来月から朝霞の警察学校だ」
「ふぅ〜ん。小村が警察か。俺の自衛隊もそうだけど、いいんだかな・・・」
「変か」
「お前みたいな奴、街の交番なんかにゃ、いねェだろ」
「ははは、じゃあ、デカならどうだ」
「デブで性格の悪い不良の“眼”飛ばしゃ、やくざも金玉縮むぜ、ってか、ははは」
「痛いか、金玉・・・すまんな」
「いいよ、俺も、やりすぎた。けど、お前の玉でっけぇ! タヌキ真っ青、あははは」
「痛ぇから、さわんなよぉ。おら、そっち向け、背中流すぞ」
「小村の玉はぁ、たぬきんたまぁ〜♪ あははは」


それから、5年の時が流れた。




札幌、真駒内。

馬喰だった父親の源治は、その日暮しを送っている。
日雇い連中のたまり場に来ては焼酎片手にオイチョに明け暮れた。
その日の源治は運が巡っていた。
「おら、梅に萩!」
「ッちぃ。またかよォ」
「へへへ、わりーな。今日は運が味方してるんだべ、すまんな」
源治は、掻き集めた金を腹巻きに押し込んだ。
楊枝を舌で器用に転がし、前歯でコツコツと噛みながら、意気揚々と酒場に繰り出した。
赤ちょうちんの暖簾をくぐり、少し偉そうに吟醸酒をたのんだ。
「おや、今日は焼酎じゃないんだね。なんかあったのかい」
「人間、悪いことばかりじゃねェっつーことよ、な、かあさん」
「ご満悦だね、源さん」
「あ、刺身。烏賊とマグロ、もらうか」
「あいよ」


遅い時間に店を出た。
まだ、腹巻きには十分な金が残っている。
源治は鼻歌交じりにガード下を通っていた。
「よお、おっさん、どこ行くん」
「ふん・・・誰だ、あんた」
「おっさん、どこ行くんか、聞いてんだぜ」
「ははは・・・あっち」
「こら、おやじ、舐めとんのか」
「どこに行くってっから、あっちだ、って。何が舐めるだぁ、しょうもねェ」
「おう、おやじ、俺にも酒、飲ましてくれよ」
「へっ!酒飲みたきゃ、稼げ」
「おやじ、腹巻の金、重そうじゃん」
「フン!糞ガキが、ションべンして、寝ろ、たあけ」

髑髏のスパンコールをキラつかせ、耳と鼻にピアス、ガリガリの栄養不良。
もう一人は腰パンからケツの割れ目をのぞかせる小太り短足。
三人目は、様子を窺って何も云わず見ているだけのリーゼント。

腹巻きの背中に回った5円を残して、金を奪われた源治は、
前歯を飛ばし、指路上で先をひくつかせてぶっ倒れている。
ほどなく通過した車両の運転手に拾われ、
源治が目を覚ましたのは、病院のベッドだった。
来るはずの身内はなく、払える治療費もなく、
国の世話になるまま3年を細々とすごし、後に、東京に流れた。



健二は、新しい赴任先、真駒内駐屯地にいた。
自衛隊では名の知れた小野田陸曹に呼ばれ、訓練の手ほどきだと、柔道着を渡された。
40代後半、健二とはおよそ一回り違う先輩で、元日本代表である。
健二は柔道が苦手だった。
中堅隊員として技術習得の命令があり、受身、投げ技、寝技の組み方を教わった。
およそ赤子の手を捻るような、されるがままの手ほどきだったが、
寝技に入ったとき、健二は気づいた。
股のあいだに手を入れ、組み手の方法を説明しているのだが、
この先輩は股間から手を離さない。
柔道着の下には何もつけていない。まさぐる指の動きが玉と竿を掴んだ。
健二は、先輩の目を見ながら、しっかり握られているその手を押しのけようとした。
「カンベン、っす」
「森下。勘違いすんな、訓練だぜ」
「しかし・・・」
「しかし、何だ。技を掛けるのに金玉握るなってか」
「そのぉ・・・」
すると、上四方固めで体をかわし、健二の割れた腹筋に口をつけてきた。
先輩の股間が健二の顔を被い、明らかに勃起した先輩のイチモツが顔面を擦りつけた。
「うううぅぅ」
ネチネチと小野田の身体を巻きつけるように健二を締め上げ、手や腕は執拗に股間をまさぐった。

翌週、再び呼び出された。
「練習は訓練、規律を守ることを忘れるな」
直立、敬礼した。
しかし、
締め技の裸締めでは、脚を使った変則だといって、先輩の股間を顔面に埋められた。
隊では、密かに健二へのイジメが横行していた。
ガキの16からおよそ15年、頑張る努力を幹部は評価していた。
それを快く思わない落ちぶれ陰湿な輩は、こうして男色に陥れる企みをやめなかった。

その日、遅い時間にシャワー室に入った健二を見て、陸曹は入口をロックした。
健二の肩に手を置き、背後から上半身をまさぐるように、泡を落とした。
陸曹の勃起した男根は健二の尻に挟まれ怒張している。
シャワーを止めた。
健二の、盛り上がった大胸筋を揉みながら、片手で乳首を摘まむ。
健二のペニスは特に反応してはいない。むしろ、思いがけない展開に、縮んでいる。
陸曹は首筋に舌先をあてて耳を口に含み、手は6枚に割れた腹筋と乳首を撫でた。
不覚にも、健二のそれは、次第に反応していた。
悔しさの中にいる健二の尻に、陸曹は己の分身を挿入してきた。
「ううっ! んんん・・・やめて・・・下さい」
「いいじゃねえか、気持ちいいんだろ、おら、反応してんじゃねえか」
腰を振って、その挿入を拒んだ。
「逃げんなよ、されたいんだろ、素直に受け入れろよ」
自分の手を添えて、アナルに押し込もうとしたとき、健二は振り返って陸曹を殴った。
「もう、たくさんだ! 俺はホモじゃねェ! うせろ変態!」
渾身の一撃を顔面に喰らわせ、ドアを蹴り破壊して健二は逃げ出した。

一目散だった。

(居たくない、関わりたくない、顔も見たくない、もうたくさんだ!)

悔しさと、情けなさで、泣きながら夢中で夜の街を走った。
どうせ、俺なんか。
無学で、要領悪いし、できるのは力仕事だけ。

(健二は飯食うのは一流。体も一流。勉強三流、思考回路は壊れっぱなし。)
(失敗は先輩にかばってもらってるしな。)
(陸曹は健二の身体がたまんねーって言ってるぜ。あはははは。)
(男の大奥か、あはは、こりゃたまげた)


俺は、何者なんだ!
男の道具か。奴等の玩具か!
ふざけんな、ばかやろ!

川のほとりまで来て、両手をついて荒い息を吐いた。
凪いだ川面に街灯が映る。

(どうして、こんなに日に、鏡のように波ひとつ立たない川なんだ!」
(小村・・・会いたい・・・)

音のない深夜、健二の頬に涙が滂沱となって流れ落ちた。




2ヵ月後。

小村は電話に出ない健二を思って、真駒内駐屯地に問い合わせた。
「もしもし、小村といいます。そちらに森下健二がいると思いますが・・・」
「あのぉ、どういう関係でしょうか」女性の声だった。
「同級生で、親友です。携帯に電話しても繋がらないので、すみません」
「ちょっと、お待ちください」
数分待たされたあと、話があるということで駐屯地に来るよう言われた。
「あ、でも俺、東京にいるんで、そちらに行くのはちょっと難しいですが」
再び数分待たされた後、男の声で意外な言葉が返ってきた。
「庶務のものです。森下健二は事情があって免職になってます。実は、荷物があるのですが引き取ってもらえないでしょうか」
「免職って、どうしたんですか」
「来てもらえると話せるんですが、つまり、傷害、規律違反など、いろいろありましてね」
「健二が、何をしたのですか」
「人事課には、悪質な規律違反常習者、暴行ということで報告があります」
「それで、今、森下はどこに」
「無断外泊、欠勤で消息不明です。何なら荷物はそちらに送りますので、届きましたら受領書を返送してください」


メールや写メの送信、電話のやり取りは欠かさなかった。
そしてこの夏、帰省した折に再会する約束だった。

小村は警察学校から交番勤務、所轄の警察官として勤務していたが、
親方日の丸上司が肌に合わず、悶々とした業務の毎日に辟易としていた。
各国の要人が来日する国際会議の警備のため国家的警備が敷かれ、
他県に赴いていた時に知り合った先輩刑事に引き抜かれ、今は、マル暴担当の刑事だった。
自分の職務の多忙さもあったが、送信してもつながらないこと、
健二からの音信がないことを気にしていた時だった。

「やばい。どこにいるんだ、健二」



新宿、路地。
片道だけの金で、夜汽車に揺られた。
辿り着くというより、ここに流れ着いたが、どこに行く当てもない健二。
気がつけば、家族とは名ばかりの、あの日のすさんだ家の暮らしに似ていた。
金はない、欲しいものは万引き、ひもじければ凄んで見せて、巻き上げる。
あの時と事情が違うのは、コンビニに張り付けば、捨てる飯を拾うことだった。

「よう、兄さん、飯かい。期限が切れようがタダ飯はありがてぇよな」
「・・・」
「捨てるモンを拾っても、そりゃ自由ってこった。だがよ、だまって持ってくのはよくねぇな」
「・・・」
「よう、兄さん。5万でいいや、な。ポケットの中のもの」
「・・・」

ドス!
ぉゲっ!
ズン!
グワッ!
ブシュッ!ブシュッ!ブシュッ!

あっという間の出来事だった。
目を剥いたまま男は、地面にぶっ倒れた。

食べかけの弁当をベンチに置きっぱなしにして、健二は歩き出した。
街路灯の下の水のみ場で水を含み、公園の便所で用を足して、出たときだった。

右の口元にすばやく拳が飛んできた。
不意打ちを喰らい、よろけたところに、左から腹部に蹴りが入った。
グぇ!
(一瞬目に入った、白い蛇皮ベルト)
髪を掴まれ、持ち上げられた顔面に、また拳が立て続けに2発。
羽交い絞めにされ、鳩尾にナックルが短い間隔で、ズ! ズ! と刺さった。
トイレの壁に背面から叩きつけられ、激しく後頭部を打つ。
開脚したまま背中から直角の姿勢で滑り落ち、尻が地に着いたとき、
スニーカー野郎のつま先が、股間をえぐった。
脳震盪でかすむ意識の中、叩き起こされるような、吐き気を催す激痛が内蔵を襲う。
健二は痙攣し、やがて動かなくなった。




遠くに街の喧騒が聞こえる。
身をよじると筋肉がキリキリと痛む。
健二が気を取り戻したのは、部屋の中だった。
「おう、気づいたか。・・・いや、無理すんな、寝てろ」
薄目を開けるが、ぼんやりしている。
口の中がネタネタと気持ち悪い。
顔らしき影が見えるほうを向いて“水”と声のない口を開いた。

再び意識が戻ったとき、自分がどこにいるのか、部屋を見渡した。
「兄さんよぉ、目が覚めたかい。ひでぇ目にあったな」
「ここは・・・」
「汚ねぇけどな、傷がいえるまで、ここにいていいからな」
「あなたは・・・」
「ああ、俺は一人モンだから、気にすることはねぇから。何か、食うか」
「いえ、いいです。すいません」
健二は、疲れていた。
行くところも、明日のことも、何もなかった。
数日のうちに、傷も癒えて、健二は外に出られるようになっていた。
「よお、兄さん、一緒に来るかい」
「え、どこ・・・」
階段を上がってドアを開けると、身なりの良くない連中がオイチョに興じていた。
「源さん、新入りかい。また、えらく若いな」
「そうじゃねぇよ」
健二が、部屋の空気が白く淀む奥の椅子に腰掛けたときだった。

「おい! いかさまやったな、この野郎!」
「何を言いがかりつけやがんでぇ、証拠あんのかよ!」
「お前ぇのいかさまが見抜けないこの俺だと思ってんのか、おう!」
取っ組み合いが始まった。
座布団の上の金が、足で踏まれる。
コップの焼酎が弾き飛ばされ、罵声と、殴られて居合わせた客に突っ込む乱調。
その中に、無言で割って入ったのが源さんだった。
いかさまをやった男の首根っこを捕まえ、叩き出した。
「お前さん、悪いこたぁ言わねぇ。これっきりに、な」
「よお、源さん、これで引っ込む俺だと思うな! 覚えとけ」
右の鼻の横に大きなホクロのある、禿げたオヤジだった。
源さんは、健二を見て薄笑いを浮かべながら、頷いた。
「騒がせちまったな、気、取り直して、やっとくれや」
言い残して、源さんは部屋を出た。

健二は、健二の前でフダを握ってる男に、声を掛けた。
「源さん、って、ここの何んすか」
「源さん、か。あいつは、北海道で馬喰やってた暴れ者よ。家なんかほったらかして、馬を売っては現ナマ腹巻に入れて、遊びほけて一人息子の健二と、嫁を置いて、家ぶん投げた大馬鹿野郎だぜ。美人の嫁もな、男はべらす女だとは言ったが、ま、どっちもどもならん人間だわな」
「もしかして、源さん、って、森下源二、ですか」
「その嫁さんの名は、美津子っすか」
「おう、そうよ。よく知ってるな」
「で、今、源さん、どこに行ったんすか」
「タバコか、酒でも買いに行ったんじゃないんか」

客が引き、夜が更けても源さん、オヤジは帰って来なかった。
健二は探しまくった。
次の日も、その次の日も。
いない。
部屋の引き出しや、着ているもののポケットをあさり、捜索の手がかりを探した。
パブ美津子。


西新宿の雑居ビルに行灯があった。
ドアの前で、健二は心臓の鼓動が激しく高鳴るのを抑えようと懸命だった。
「いらっしゃいませ」
若い女の声で迎えられた。




西新宿を回っていた小村は、クソ餓鬼が溜まっているというゲーセンにいた。
餓鬼らは、ケバイ化粧のションベン臭いムッチリ女にナンパを仕掛けている。

振られやがって、馬鹿が。
小村はニタリと笑みを浮かべた。

「おっさん、眼飛ばして何が面白い」
言い寄ってきた。
「胸糞悪い目つきしやがって、うろつくな、オヤジが」
サングラスかけた、蛇皮ベルト野郎。
腕にタトゥーを入れた腰パン坊主。
ペンダントと黒のアンダーアーマーのタンクトップ。
奴らとはふた周りは大きい、モヒカンデブ。
アラサーの、出来損ないチンピラカルテットのお出ましだ。
囲まれた。
少し歩けば、公園だった。
人影がまばらになる。小村は歩いた。

「オヤジ、逃げんなよ。」
「ドデカいガタイしやがって、ブタ野郎だぜ、ったく」
「よお、汗臭せーし、とっとと失せろ」
ズボっ!
「ぉえっ・・・」
ボカッ!
「オヤジィ!」
ドスッ!
「っく・・・」
ズン!
「ん・・・」
何も言わず、その場を後にした。
初めて会う馬鹿どもじゃなかった。
言い寄られて、相手の手が出る前に傷が見えない鳩尾を一撃して黙らせる。
刑事には、当たり前のことだった。


若い女は、おシボリを差し出すと飲み物を聞いた。
「水割りを」
「焼酎とウイスキー、どちらになさいますか」
「あ、焼酎で・・・・」
奥で、女が、前の席の客と談笑している。
店に入って、一瞬顔を見せたが、気づいた様子はなかった。
「お客さん、初めてですね。」
「ああ、ちょとな・・・」
「何だか、凄い体してません? シャツ越しに筋肉が」
「あ、いや、肉体労働してんで」
「あら、どんな仕事かしら」
「ん、まあ、いろいろと・・・」
「男っぽくて、素敵だわ」
「はは、そんなことないっすよ」

ドカドカとやかましく人が入ってきた。
サングラス、腰パン、アーマー、デブ。
「新ちゃん、どーしたのぉ」
サングラスを外しながら、公園の汗臭いオヤジの話を始めた。
奥にいた客が、こっちを向いたとき、健二はハッとした。
ホクロ!
たまらず、健二は歩み寄った。
「あの、いきなり失礼します。源さん、知りませんか」
「ナンだ、お前。」
「いえ、ちょっと知り合いで、いま探してまして」
男はしばらく、女と目をあわせ、タバコに火をつけながら、言った。
「公園横のゲーセン行きゃわかるさ」
「ちょとアンタ、悪いことしたんじゃないでしょうね」
「俺ぁ、知らねーよ。源が来たから、あーなっちまったんで」
「兄さん、知り合いかい」
「い、いえ・・・どーも」
女と健二は、互いの顔を見た。
健二は、母親の顔を忘れていなかった。
(母さん)
しかし、ここにいてはいけないと思った。
腰パンを跳ね除け、デブをすり抜け、階段を駆け下りて道に出るとき、小村が通った。
一秒に満たない差で、小村は右に、健二は左に、行った。

「ねえ、今の兄さん、あんた名前知ってるの」
「どうして。」
「健二って言わない? そう言ってなかった?」
「そうだったような・・・」
「ママ。さっきのお客さん、これ、忘れ物・・・ライターとタバコ」
「あっ。」
ライターの裏には、黒ペンで “モリシタ”とある。


10

ゲーセン。 健二は奥に入り、店員らしき奴に事務所の場所を聞いた。
バタバタと階段を上り、5階の事務所に着いた。
激しくドアを叩くと、厳つい男が不機嫌そうに出てきた。
「源さん!源さん!」
「ナンだうるせーな」
「ここに、いるんだろ。出してくれ、頼む」
「お前、源とどういう関係なんだ」
「む、む・・・息子だ!」
「兄貴。源の息子って奴が、来てますぜ」
「世話の焼ける親子だぜ、ったく」
「よお、息子、ショバ代100万持って来い。」
「オヤジはどこだ、どこにいるんだ」
「ガタガタうるさいわい。金、持って来い」
厳つい男に蹴り飛ばされた。

長いすの陰に、源二は拘束されていた。
「オヤジ!」
「健二・・・、俺は、わかっていた。殴られてぶっ倒れてるお前を見て。忘れるはずがない、息子を。」
「なぜ、なぜこんなことになってるんだ」
「ああ、俺も流れものよ。ここの親分に拾われて博打場借りて、その日暮らしよ。だがな、こんな暮らし楽なはずがないだろ。借りた金も、ショバ代も払えねェよ。」
「100万、100万用意すりゃチャラなんだな」
「つべこべ言わずに、持ってこんかい」
「わかった、1週間待ってくれ」
「待てねェな。こっちは、どんだけ待ってると思ってんだ」
「わ、わかった、3日、3日頼む」

行く宛は、そこしかなかった。
明け方まで、健二は店のあるビルの下で待った。

「あ・・・あ、あのぉ」
「エッ! 誰!」
「すいません・・・」
「あなた。・・・けん」
「いや、すいません、いいです。すいません」
走り去った。言えなかった。
中学で別れたっきり、母親として何もしてくれなかった人間に、
でも、いま、こうして会えたのに、その最初の願がこんなことになるなんて。
灯りが斜めに射す、薄暗い公園の隅で、健二は泣いた。

「おい、こんなとこで、どうした」
背中を向けて、声掛けを拒んだ。
「この時間、この辺りには、おかしな奴がうろつくんで、気をつけろよ」
ベンチに腰掛け、頭を抱えてむせんでいた健二は、ゆっくり顔をあげた。
潤む目をこすり、ひと息ついて立ち去るつもりで、腰を上げた。

「健二。」
男が、寄ってくる。
健二は身構えた。

「まさか・・・」

「健二!」

「小村ぁ」

言葉はない、ただ、抱き合った。
(バカ野郎!)
思いを込めて、硬いゲンコツで背中をバンバンたたいた。
何度たたいても、叩かれても、嬉しかった。
「どら、汚ねェ泣きっ面、見せろ!」
腫れた眼の健二を見るなり、小村は頬に平手を喰らわした。
「痛てぇ・・・」
「どうして、署に来なかったんだ」
「俺、わかんねェよ。東京なんか」
「とんでもないこと、しやがって、馬鹿が」
「俺よォ、飛び出しちまったんで、後で電話しようと思ったけど、携帯・・・」

ベンチに腰をおろして、健二は話し始めた。
慰めや、情ではなく、小村は健二の人生を受け止め、強く、きつく抱き締めた。


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