ホームへの上り階段を、密集した人たちが刻々と進んでいる。
どこに向かうのか。
どこから来たのか。

集団の中を石岡宏は、4番にしようか5番にするか、考えていた。
行き先を決めていない。
密集した人たちがホームで分散して、やがて整然と列ができる。
空いたホームの中ほどで宏は立ち止まった。
ほどなく、列車がホームに入る。
少しきつめの乗客を乗せて、宏は車中の人となった。

いつもの、見慣れた景色をやり過ごして、うつらうつらする。
4回目の乗り換駅で降りた。
切符は最初の一駅分しか買っていない。
精算をしている間に観光ポスターを探すが、らしきものは何もない。
列車が行った後の蝉しぐれ。
照り返しで白い道がまぶしかった。

一歩駅を出ると駅前食堂がある。
「マジかよ」
コカコーラの小旗をつないだ宣伝広告が入口に吊るされている。
壁にはボンカレーと金長のブリキ看板。
「まさか、ポストは筒型じゃないだろな・・・」
期待に応えるかのように、ある。

「飯でも、食うか」
平日の昼過ぎ、人影はまばら・・・というより、見えない。
この酷暑では、外に出るのは辛いから、当然といえば当然の景色だ。
「すみません、食堂に誰もいないのですが」
駅に戻って、駅員に話すと、
「すぐに行く」と言って、奥に消えた。
店に行けば、出てきたのは駅員だった。
「あれぇ? 掛け持ちなのですか・・・」
50歳くらいの駅長というか、経営者というか、この町のことを聞いてみた。
炭鉱で栄えたが、いまは、当時の一割にまで人口が減り、
高齢と過疎の町になったという。
「じゃ、駅長さんも、あ、いや店長さん・・・どっち・・・」
「どちらでもいいさ」
「炭鉱夫だったですか?」
「自分のおやじがそうでしたけど、自分は東京の大学に行きましたから」
「店は」
「おふくろのものです。おやじが死んだあともずっとやってましたが、おふくろも6年前に逝きました」
「じゃあ、いまは駅長さんの家族で・・・」
「俺、一人もんなんで」
「あ・・・、あの、カレーいいっすか」

遠くからラジオが聞こえる。
宇宙に人が滞在する時代に、このノスタルジックな雰囲気は、はどうだ。

何もないのか、何があるのか。ポンと飯を仕込んだ腹を叩いて、町に出た。
古い家屋が、少し朽ちてあちこちに散在している。
舗装された道路わきには、雑草が勢いずいて生えている。
踏まれない道はこういうものなのかと、宏は立ち止まって見入った。
見たこともない、名前など知る由もない草に、ぐっと近寄り触れてみる。
「えええッ!」
黄ばんだ、緑がかった、背の低い草は、驚いたことに檸檬の香りがした。
少し摘まんで、ポケットに入れてみる。

歩道の法面を降りて叢に入り込むと、その先に水の音が聞こえた。
分け入ると、そこは川だった。
石がごろごろした川原で、川遊びをするには最良の場所だった。
宏は、人目をはばからず素っ裸になって川に入った。
暫くすると、道の奥から子供の声がした。
雑草をくぐって、男の子が3人、こちらにやってくる。
「あ、おじちゃんがいる」
「あ、おじちゃんが泳いでる」
「よお、こっちで一緒に泳ごう!」
「うん。」

小学校一年の子だった。
学校帰りに、毎日ここで遊ぶという。

「君の名はなんというの」
「こさか しんいち」
「君は」
「にしの ゆーたろー」
「じゃ、ぼくは」
「たかおか けんた」
「ありがと、おじちゃんは・・・・いや、おにいちゃんは、いしおかひろし。けんたは盲腸の手術したんだな。ほら、おにいちゃんと同じだろ」
「おじちゃん、おおきい」
「ははは、そっか、おじちゃん柔道やってっからな」
三人は顔を見合わせて、はにかむように小さく笑う。
「おじちゃん、おおきい」
「柔道見たことないか、いいぞ、かかってこい」
子どもの標的は紛れもなく股間だった。
かかってこい、の一言で、三人は大男の股座に襲い掛かった。
「おじちゃんの、おおきい、おおきい」
大人気なく、たたき倒すわけにもいかず、顔をゆがめて耐えるが、
容赦ない子供の揉み手が、ギシギシと体の芯に響いた。

「ぉああっ、ごら゛ぁ、おまえら、いてぇっつーの」
不覚にも、ごろ石から滑り尻もちをついた上に、足を開いたままでんぐり返った。
「あはは、あはは、きんたまぁ!」
「ええい、カンチョ―!」
宏は玩具になった。
「こら! やめろ、やめんか!」
わーーーーー!
走って行く。
追いかける宏。
叢をかき分け、反対側の法面を下って雑木の中に進んだ。
子どもの声は聞こえるが、生い茂った雑草が視界を遮って見えない。
「こら! お前たち、どこにいる」
はしゃぐ声が聞こえる。
背丈を越えた草をかき分けると、目の前に平地が広がった。
その先にある穴に、子どもが入っていくのを見た。
「こらぁ、お前たち見つけたぞ、捕まえるぞぉ」

炭鉱の、坑道跡なのか。
奥で、こだまする様に子供たちの声が響いている。
屈めて入ると、立ち上がれるほどの空間があり、その先にトンネルが続いていた。
暗いが、かすかな明かりが射し込んでいて、進めないわけではない。
子供の声は、やがてなくなった。
のしのしと四つん這いになって進むと、10分ほどで出口だった。
「なんだ、坑道ではなかったのか・・・」
子供たちは、どこかに行ってしまった。

見渡すと、木立の向こうに家並みがある。
それほど長い時間をすごした感じではないが、空は夕刻を知らせている。
駅に戻り、次の町へ行こうと思った。
「すみません、次の電車、何時でしょうか」
「今日は、もうないよ。」
「え! ないって、こんな時間なのに、もうないのですか?」
「そう、明日までないね」
「じゃ、バスは」
「ないね」
「そうですか、旅館は、どこですか」
「旅館というか、うち、泊まれるし・・・」
「旅館もしているんですか。いいっすか、泊めてもらっても」
「・・ん、何もできないけど、それでよければ」

店の2階の一部屋に案内された。
泊まるだけなら、何の不自由もなかった。
「星が出てますね。この辺りは街のあかりが少ないから、よく見えるでしょうね」
「あんまり、そういうの気にしてないけど。というか、今夜は雨みたいで」
「そうなんですか、こんなに綺麗に見えているのに」
「風呂、先に入ってくれますか。飯の支度しますから」


男ふたりで、晩飯。
宏は気になっていた。
「テレビが、ないですよね」
「すまんね、見たいですか」
「いえ、食堂にも、この居間にもないものですから、ちょっと気になりまして」
「嫌いなんで、つけてないんですよ」

飯に手を付けてほどなく、駅長が台所から一升瓶をもってきた。
「飲むかい」
宏は、身を乗り出して言った。
「いいっすね」

駅長には兄弟がいない。
親類との付き合いも希薄で、かえってそれが煩わしさから解放され、自由だという。
大学を卒業して会社の営業をしばらくやっていたが、
進んで顧客を開拓する性格ではなかったこともあり、同期の出世を遠くから見ていた。
強要による接待も、しばしば駅長を悩ませた。

そうした過去を話す駅長を、宏は見つめていた。
酒を酌み交わしながら、こみ上げる感情を、幾度か抑えた。
「好きな人とか、いるんですか」
宏は、唐突に聞いた。
薄く笑う程度で、語らない。
聞き返されるが、宏も答えにくい。
酒の肴を摘む箸の先が器の縁を何度も滑り、切ないほど不思議な時間が漂う。
ラジオのかすかな音も時計の振り子の音でかき消された。
「・・・あの、・・・・」


屋根に雨音がはじけた。
「ん、来たな」
「遠くで、雷も鳴ってますね」
「この蒸し方だと、面倒だな」
手際よく、引き出しから蝋燭を取り出す。
俄かに雨音は強くなり、雷は近くなった。

「御免、いるかぁ!」
「おう、あがれ」
「傘を持たんで出たものだから、この通り・・・」
「あ、お客さん?ですか。俺、もう部屋に行きますから・・・」
「いい、いいって、気を使うような奴らじゃないから」

寡黙な駅長が、雨やどりの男二人を招き入れ、にぎやかな酒盛りとなった。
雨は騒がしく降り続き、引き出しから用意した蝋燭は、暴れまわる雷に対抗して、存分に役割を果たした。

薄暗い部屋の中を蒸し暑さで半裸になった宏は、男たちにおだてられ、言われるがままに酒を浴び、酒を干した。
川原で子供に遊ばれ、坑道に入ったこと、それは他愛無い出来事なのだが、
酔いが回った男たちから、からかわれるように触られ、弄ばれた。

稲妻が蒼白く走り、雨は駅前食堂の看板を激しく打ち続け、
横殴りの風はコカコーラの小旗をちぎった。

夜は更けた。



宏が目を開けると、手足が拘束されたまま男たちに囲まれている。
呻きを上げるが、言葉にならない。
猿ぐつわされている。
部屋は蝋燭の明かりしかない。

「ぅおおおおお・・・」

前触れなく襲い掛かる男たちに、金玉が剥き出しに晒される。
もがけばもがくほど、力任せに腕と足を押さえつけてくる。
どいつが、どの男なのか、判別がつかない。
人が動けば、ろうそくの揺らぎが、男たちの影を壁に映す。
「あうぅぅ。」
左右の玉を一個ずつ握られた。
身をよじって逃れようとすれば竿を握られ、引っ張り、引き戻される。
(なぜだ、どういうことだ。)
男たちは、無言だ。
顔を合わせる様子もなく、しかも、いつの間に宏は拘束されたのか、覚えていない。

「あ゛ッ!、あ゛ッ!、あ゛ッ!」

エビ反って、防護のしようのない金玉を、拳で無情にえぐられた。
頭を振れば男の股の間に仕舞われ、顔面に尻が落とされ、がっつり固定される。

「うゴゴゴゴゴぉ・・」

息苦しさと屈辱と反抗でバタつくと、踵に全体重を乗せて踏み込まれた。

呻き、喘ぎで喉が鳴る。
まるでモノ扱い。
男が離れると、次の男がストンンピング。
耳に手をあてがい、顔を覗き込み、平手を叩き込んで、横向きの頭を足で踏む。
足首の拘束が解かれると、全開脚された。
黒い膝頭が二個の睾丸をひしゃげると、
後ろ手に拘束された手が、充血し、むくんで、赤黒さを増してひきつった。

稲妻と同時に轟く雷鳴。
なぎ倒される立木。
宏の声を聴く者はだれも、いない。

片腕と片足を持ち上げられ、開いたままの股間は、
足をくの字に立てた膝をめがけ、こすり落とされた。
「ぎゃあああああ」
脛とふくらはぎを螺旋のように組んでもがく。
身体が小刻みに震えて、次第に硬直してゆく。
身体を起こされ、胸に乗られ、両膝を抑えられたまま、再び開脚させられた。
男は間に胡坐をかいて座り込み、握りこぶしの親指に、パツンパツンの金玉を乗せ、
等間隔で強いナックルが押し込まれていく。
「ぐわわわわぁぁ!!」
規則正しく体幹を通って突き抜ける激痛に、意識は次第に遠くに消えていった。


果たして、気絶だったのか。
少し痛む頭は、二日酔いのようなものだった。
カーテンを開けると、外は重い雲に覆われたまま、道路には大きな水たまり。
それを眺めながら、宏は金玉に手を当てる。
痛みがないのは、なぜだと、不思議に思った。
下に降りると駅長が朝飯の支度をしていた。
「朝風呂、よかったら、どうだい」
「え?」
居間の隅には、男が二人ごろ寝している。
「昨日の嵐で、結局帰れなくてね」
「そうなんっすか、俺・・・あんまり覚えてなくて・・・」
「あはは、雷と雨でかき消されたみたいだけど、鼾より、凄い唸り声だったな」
「俺の部屋で・・・・俺がですか・・・・」
「ん、違ったかい」
「あ、いえ・・・、よくわからんっす。風呂、行きます」

少し熱めの湯に浸かりながら、部屋から男たちの声を聞いた。
(しんいち、起きろ)
(宏は?)
(・・・うん、いま風呂)
(ゆーたろー、しんいちを起こしてくれ)
(ゆーたろーは飯食う時間あるか)

「まさか、駅長が けんた、か」
湯船から湯がはじけ飛ぶほどザバッと立ち上がり、
何も身に着けずに、風呂場の引き戸を荒々しく開けた。
「駅・・ちょ!・・・・・」

こ綺麗に整頓された部屋には、さっきまで人がいた気配はない。
ちゃぶ台に朝飯の支度ができている。
メモが置かれていた。
「またのお越しをお待ちします。駅前食堂」


駅には数人が列車を待っていた。
駅長は、いなかった。
「あの、ここの駅長さんって、そこの食堂を経営されてる タカオカケンタ さんと・・」
「ええ、もうだいぶ昔のことですけどね。ちょうど今頃ですかねぇ、そこに川があるんですね。雨で川が溢れて、流されたんですよ。友だちと三人で遊んでいてね」
「しんいち と ゆーたろー ですか」
「ええ、あなた、お知り合い?」
「いえ、昨日、そこの食堂でお世話になったものですから」
「お世話って・・・からかわないでください、そこ、空き家ですよ」


乗り込んだ列車は、ゆっくり動き出した。
車窓から駅前食堂が見える。
人の気配がない、少し朽ちた建物だった。
幻だったのか、
幽霊だったのか、
夢をみているのか・・・


嫌な疲労が肩にのしかかった。
目が覚めたら、その駅で降りよう。
宏は、目を閉じた。


どのくらい乗っていたのだろう。
肩をたたかれた。
「終着ですよ」
ぼんやり、目を開ける。

外は真っ暗闇だった。
裸の子供が、宏の前を小走りに、列車を降りてスーッと闇に消えた。
「おい、ゆーたろー! しんいち!」

「今日も、泊まって行きますか」
「え!・・・駅長・・・」


列車が行った後の、駅の静寂。
照り返しで白く眩しかった道には、
無数の蛍が浮遊し、遥か彼方に消えていく。

そして、

何もなくなった。


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