かわせみ


太郎は清流沿いの宿を目指していた。
特に目的地を定めた旅ではない。
とりあえず、車を走らせ、行き当たりの場所で休むことにした。
残業が続くきつい毎日から、ひととき開放されたい、
計画など、持ちたくもない、
電話もテレビも、携帯もない時間に浸りたかった。

街中とは数度気温が違う。
やがて、木立の向こうに佇む宿が見えた。
壮年の夫婦ふたりで賄う「かわせみ」という宿。
いろりを囲むように、客室があった。
今夜は、遼太郎と、ほかの旅人のふたりきりだった。
渓流の魚と山菜料理の味は、格別だった。
主人の用意した酒も、遼太郎を満足させた。

「湯は、川沿いの露天です。好きなだけ、ごゆっくり」
懐中電灯を渡され、旅人とともに湯に浸かった。
一坪ほどの東屋に小さな湯船。
巨漢で熊のように毛深い男とふたりは息苦しいが、湯加減が絶品だった。
盆の休みで帰省しているという。
どこかで見たような顔だと思った。
「あの、もしや・・・」
「ははは、櫛田五郎です。どうも」
「やはり、そうでしたか」


ラグビーでは知られた男だった。
遼太郎は、この際だと思って櫛田に聞いた。
「ラガーマンの寮生活は、素っ裸が普通だと」
言わずと知れたことと言わんばかりに、櫛田は語り始めた。
「じゃ、櫛田さんも金玉責められたんすか」
「ははは、言っただろ、やってるって」
櫛田は立ち上がって見せた。
遼太郎は、恐る恐る熊玉を握った。


「何をしとるんだ」
頭をつかまれ、ドスッと熊玉に顔面を押し当てられた。
グエッ。
両手で頭を掴まれたまま引き上げられ、湯がジャバジャバ音を立てる中で、
遼太郎の股は櫛田に広げられ、毛深い丸太が玉を押し上げた。
湯の中でダランと垂れた金玉は、熊男の膝の一撃で見事に潰された。
口から、鼻から、湯が入り込み、
むせては、襲い掛かる吐き気と、やり場のない激痛に、遼太郎は沈んだ。

気がついたときは部屋にいた。
遼太郎にとって金玉蹴りなど、経験のないことだった。
まだ下腹に残る痛みに耐えつつ、沸々と仕返しの思いが、
囲炉裏の向かいの櫛田の部屋に突き刺さった。

板戸を引くと、熊男は浴衣をはだけて、大の字に寝ていた。
遼太郎は、腰紐で止まっている布を払いのけた。
かすかな灯りの中に熊の金玉が晒されている。
櫛田は目を開けた。
むっくり起き上がり、布団の上で胡坐をかいた。
「やれんのか」
心臓がバクバクしている。
「やる。仕返しする」
肩で息をするほど興奮している遼太郎を見て、熊男は隙だらけの股に脛を打ちつけた。
「やれんのか」
しばらく部屋の隅で芋虫になった遼太郎は、再び意を決した。

ど太い太腿に密集する剛毛。
片手に余る金玉。
握り締め、拳を打ちつけ、暴れる巨漢に跳ねられても、
喰らいつき、抱きついて蹴り上げる。
さすがに、打たれれば痛いのだと遼太郎は、さらに固く拳を握って打ち込んだ。
垂れた金玉が縮んでくる。
熊男がのけぞり、かがみ、膝から屈して亀になる。
無謀な、巨漢輩への金的。
が、無鉄砲であるがゆえに、指先が玉を押し潰し、かきむしり、
ぶっとい筋肉の塊の太腿に押し付けられ、ひしゃげる金玉。
足裏で叩きつぶし、甲で蹴り上げ、拳で打ちつけ、両手で揉みつぶす。
口から泡を吹き、唸り、うずくまる。
遼太郎は激しく乱れた呼吸で、両手を突いて喘いだ。

障子に薄く灯りが差し始めた頃、熊男は遼太郎を見て、言った。
「やれんじゃねぇか」
冷や汗と、脂汗とにまみれた男ふたりが、
谷川の清流で、痛む金玉を冷やし合う。
「また、会えるか。」
遼太郎の問いに、櫛田は答えた。
「どうかな」
男が、先に宿を出た後、遼太郎はもう一度川辺の風呂に浸かっていた。


二日後、いつもの時間が始まる。
新聞を広げて、我が目を疑う。

“渓流の宿 かわせみ 流される 不明三人”
8月11日・・・


遼太郎は朝刊の日付を見た。
8月13日。


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